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ビーバーのダム作りは「本能」だけなのか
先日ネット上で「ビーバーは本能だけで行動し、学習をしない」といった意見を目にしました。
私の頭の中では、山口百恵『プレイバックPart2』の「バカにしないでよ♪」というフレーズが流れました。
もちろん、ビーバーのダム作りに生まれつきの要素(本能)があることは否定できません。
ビーバーが水の流れる音を聞いてダムを作ろうとする行動は、一般的に「本能」と説明されます。
当サイトでも、そのように書いてきた箇所があります。
- 親から教わらなくても、ダム作りのような行動を始める。
- 動物園育ちや、幼い頃に保護された個体でも、水音に反応して枝や泥を運ぶ。
といった行動から、「ビーバーのダム作りは本能だ」と説明されてきたのは、自然な流れだと思います。
ただし、それだけで説明しきれるのだろうか?と考えてしまいます。
環境に応じて変化するビーバーの行動
実際のビーバーのダム作りを見ていると、決まった動作を機械的に繰り返しているようには見えません。
- 水位が下がれば補修する。
- 流れが強い場所には、より多くの枝を重ねる。
- 簡単に抜けないように、枝を絡めて固定する。
- 隙間には泥や葉を詰めて強度を上げる。
状況を感じ取りながら、
「今、どこを直すべきか」を選んでいるように見えます。
また、野生のビーバーの子どもは親と一緒に約2年間生活します。
その中で、ダムや巣のある環境に触れ、実際の構造を見ながら暮らしていきます。
単独で育ったビーバーでもダム作りを始めることはできます。
ただ、他のビーバーと一緒に暮らした個体のほうが、よりうまく環境に適応できる傾向があるとも言われています。
そのため、「本能」という言葉だけで説明するのは少し足りないのではないか、という疑問が生まれます。
拡張表現型(Extended phenotype)という考え方
リチャード・ドーキンスは、1978年の論文および1982年の著書『The Extended Phenotype(邦題:延長された表現型)』の中で、「拡張表現型(Extended phenotype)」という考え方を提唱しました。
これは、遺伝子が作り出す「形」は身体そのものに限らず、その動物が環境の中に築く構造物にも及ぶ、という考え方です。
ビーバーのダム作りは、この拡張表現型の代表例として、しばしば取り上げられてきました。
一見すると非常に複雑な行動ですが、もともとは「水の音に反応して流れをふさぐ」という、生まれつきの行動から発展したのではないかと考えられています。
流れをふさぐ→ 水位が上がる→ 巣が安全になる→ エサが取りやすくなる
このような流れが生存に有利に働き、より効果的に水をせき止められる個体が残りやすくなりました。
その結果、この選択圧が長い時間をかけて積み重なり、現在のような高度で複雑なダム作りへと発展した、という説明です。
本能と文化の境界は存在しない―ティム・インゴルドの視点
この問題は、ビーバーに限らず、動物の行動をどう捉えるかという問いにもつながります。
ビーバーの行動は「本能」として説明することもできますが、同時に「環境を理解し、状況に合わせて工夫している行動」と捉えることもできます。
イギリスの社会人類学者ティム・インゴルドは、「動物は本能、人間は文化」という単純な区別は誤りであると述べています。
動物も人間も、環境と関わりながら形を作り、学び、それを次の世代へと受け継いでいく存在であり、違いがあるとすれば、それは「やり方の量や範囲」の差にすぎない、という考え方です。
インゴルドはまた、「建てるより先に“住むこと”がある」とも指摘しています。
かつては、人間はまず頭の中で家の形を考え、それから建てる存在だとされてきました。しかし実際には、人は環境の中で暮らし、手を動かし、関わり続ける中で、少しずつ形のイメージを育てていきます。
そのため、「最初に頭で考えてから作る」という理解だけでは不十分だと述べています。
「学習しない」と言い切ってしまうことへの違和感
問題は、ビーバーの行動を「学習」と呼ぶかどうか、という点にあると思います。
ビーバーのダム作りは、
- 本能がまったく関わっていない行動でもなく
- 本能だけで完結している行動でもない
そのあいだにあるものではないでしょうか。
本能を出発点にしながら、環境と関わり、その場所ごとの条件に合わせて形を変え続けてきた。
個体としての経験と、種としての長い進化、その両方の積み重ねの結果が、今見られるダム作りなのだと、私は考えています。
人間は、言葉や数学といった抽象的な仕組みを発達させてきました。
一方でビーバーは、言葉ではなく、感覚を通して世界を理解しています。
アイキャッチ画像のような計算はもちろんしていないでしょう。
でもそれは優劣の問題ではなく、進化の過程でそれぞれに選ばれてきた「理解のしかた」の違いなのだと思います。
